「紀和鏡『あのこをさがす旅』をめぐる旅」「紀和鏡『あのこをさがす旅』の中間報告、2017年熊野大学の夏期セミナーにて」に続きます。
更新履歴
日付 | 更新内容 |
---|---|
2024/09/02 | 月刊 ASCII 1990年1月号掲載の映画『ノーライフキング』のレビュー記事と髙𣘺ピョン太氏のポストを収録しました。 |
2024/04/25 | 続き記事へのリンクを追記しました。あわせて、『あのこをさがす旅』について言及しているページを紹介します。「あの本のタイトル教えて!(児童書板)まとめ / 紀和鏡(きわきょう)『あのこをさがす旅』(旧 URL)」 |
2024/03/22 | 切れていた YouTube 動画のリンクを変更。 |
2019/12/30 | 竹熊健太郎氏によるツイートを追記しました。 |
2015/02/08 | 『子どもの本棚』(1990年8月・日本子どもの本研究会)掲載の書評を取り寄せて記事の続きを書きました。あのこをさがす旅をめぐる旅かな |
2014/06/17 | 下記に言及(再掲載)を見つけた。
|
2014/05/15 | 『子どもの本棚』(1990年8月・日本子どもの本研究会)に書評があるようだ。
|
こんなじゃダメ神様、ファミコンゲームと少年少女が出会うとき
ファミリーコンピュータのせわしく明滅する画面とやかましい電子音、ニューメディアが生み出す新しいリアルに、子供だった僕らは夢中だった。そんな僕らを大人たちは奇異の目で見ていた。ときに露骨に僕らからゲームを奪い取ろうとした。
なかには僕らのことを興味深く観察し僕らとファミコンの物語をモノにした大人たちがいた。そう、ファミコンゲームと少年少女が出会うとき、そこにドラマが生まれる。そしてそのドラマを書き残すことは子供である僕らの手に余った。僕らは僕らの側に立ってくれる語り部を必要としていた。
NAN-CHATTE!!
ファミコンゲームを取り入れた作品
さて、ファミコンゲームを取り入れた作品を2つ紹介したい。ファミコンゲームの登場する物語作品は数あれど、このふたつはいつまでも気になり続ける作品です。
一方は著名で映画化もされた。もうひとつは、ずいぶんマイナーになってしまうみたいだ、言及する人はいない。故に、両者を併記したレビューなどは、少なくともインターネット上では見ない。
関連年表
日付 | 出来事 |
---|---|
1987/01/26 | 『ドラゴンクエスト2 悪霊の神々』が株式会社エニックス(現スクウェア・エニックス)より発売。 |
1988/02/10 | 『ドラゴンクエスト3 そして伝説へ…』が株式会社エニックスより発売。発売日には量販店の前に数キロメートルの行列ができるなどの社会現象を巻き起こした。(wikipedia より) |
1988/08/10 | 『ノーライフキング』発行。いとうせいこう著。新潮社。竹熊健太郎氏によると、執筆は一年以上前に終えていたとのこと。 |
1989/12/16 | 映画『ノーライフキング』公開。市川準(監督)。アルゴプロジェクト(アルゴ・ピクチャーズ)。 |
1990/04 | 『あのこをさがす旅』発行。紀和鏡。理論社。 |
ノーライフキング
― 大ヒットファミコンゲーム(小説ではディスコンと呼ばれる架空のゲーム機が登場する)ライフキングの伝説にあるとき呪われたカセットが存在するという噂が流れる。
― クリアできなければ死んでしまうという噂が全国を駆け巡り子供たちは狂騒状態へと突入する。
原作は、トレンディーな感性でマルチなタレントを発揮する(当時)いとうせいこう氏。いたこ状態になって作品を書き上げたという。
まず映画に出会う
さて、僕の父はこの当時、月刊アスキーを購読していて僕もそれをわけもわからずに読み込んでいた。ゲームの紹介記事や 加藤洋之 & 後藤啓介氏の4コマ漫画にイラストを読んでいた。その記事の隅に映画評があったのを覚えている。記事ははじめてコンピュータを正しく描いた作品として評価していた。
まもなく近所のレンタルビデオ屋(平安堂長野大橋店)で借りて作品を目にすることとなる。この頃は父にねだって様々な映画やアニメを目にしていた。ラストシーンの音楽と風景の続くシーンなど、よく分からない、といったところが当時のおぼろげな感想だ。
遅れて原作の小説を手にするのは、確かとなり町にブックオフが進出した高校時代だったと思う。小説は再版を重ねていて藤原カムイの装丁によるハードカバーが最も最初のものになる、これを初めて手に取った。
小説は投げっぱなしたように物語は終わり、映画版では狂騒状態の終焉と日常への回帰が描かれる。
DVD 化はされていないので、オークション等を利用して VHS 版を手に入れるしかない。また、鈴木さえ子による映画音楽が CD 化されていて、僕も少し前に購入して聴き込んでいる。劇中に挿入された児童の合唱による『こんなじゃダメ神様』はチロリン・アンソロジーに収録されている。
Media Break Movie
世紀末の日本の子供たちを描く ノーライフキング全国につながるコンピュータ・ネットワークを持つ学習塾は,子供たちの情報交換の場だった.
物語のカギとなるソフト“ライフキングの伝説IV”.原作には詳しい記述はないが,映画ではアクション RPG として描かれる.
監督の市川淳は CF 出身.劇場用映画の監督は3本目になる.
“あすなろ会”の授業はすべてコンピュータを介して行われる.いまノートはフロッピーディスクにとって代わられたのだ.
これは,日本映画史上で最も多くパソコンが登場した映画である.
原作は,昨年の夏に新潮社から刊行されたいとうせいこうの同名小説.かなりの話題になったので,読んだことのある人も多いだろう.ただ,やはり原作と映画は別もの.特に僕にとっては.これが解釈の違いというものなのだろうが,ずいぶんと異なった印象を受けた.
「呪われたファミコンソフト“ノーライフキング”.解かないと死んじゃうんだって…」子供たちの持つ噂のネットワーを軸に,大人たちも巻き込んで巨大な何かが静かに動き出した….
ストーリーについてはこれ以上触れない.現代の子供とそれを取り巻く日本の社会が,どちらかというと淡々と描かれている.限られた時間が勝負の CF 界を生き抜いてきた監督とは思えないほどだ.
背景となる社会の描写には,かなり気を使っているようだ.もちろん20年近く前に主人公と同世代だった僕には,共感できる部分と,すさまじい違和感を感じる部分とがある.終業式,夏休みの水泳教室,放課後の寄り道,自分専用の AV システム,留守番電話まで備えた子供部屋,完全にコンピュータ化された学習塾,どこか浮いている周囲の大人たち.これが現代の子供たちの世界というものなのだろう,きっと.
ちなみに,コンピュータに関連したシーンは,“かなり”正確に描かれているといえよう(というか,今までのものが,あまりにもいい加減だっただけだが).なお,映画に登場するゲームや CAI システムの画面は,すべて X68000 のもの.画面制作は原田大二郎だが,我らがログイン編集部も協力しているという(ただし,クレジットには登場しない).40台のマシンが並ぶ学習塾の教室シーンは,壮観でさえある.
パソコンマニアを自任するなら,これだけでも見ておいて損はない,かもしれない.
(吉田)
ノーライフキング,12月中旬より公開予定
高橋はプログラマーのころ、映画「ノーライフキング」中に出てくるゲーム「ライフキングの伝説IV」のプログラミングを担当させていただきました。ゲームの原画はCG作家の原田大三郎さん、ドット絵はファミ通デザイナーの鑓田準次さんでした。この仕事を最後に高橋はプログラマーをやめました。
あのこをさがす旅
― ファミコンゲームをしている最中に突然聞こえてきた、女の子の声、その声にいざなわれるように、少年少女の冒険が始まる。
こちらは荒唐無稽な作品で、主人公の少年少女は、実際にファミコンゲームの世界を旅することになる。
― それは体育館に現れた世界の裂け目からだった。
そして主人公の日常は脈絡もなく(ランダムに)ゲームの世界を行き来するカオスなものとなる。8bit ゲーム機特有の唐突な演出が僕らを熱狂させたが冷静に見ると理不尽極まりない。まさにそんな感じで物語は進行していく。少年たちはゲームの世界で都合よく勇猛な戦士や恐るべき魔法使いになるといったこともなく、あてどなく彷徨い怪異に遭遇していく。
そういえばネバーエンディングストーリーでも、主人公バスチアンは美しい剣士としてファンタージェンに召還されるが、最後は何もかもを失い自らの再生と人間世界への帰還のために心細い旅をすることになる。
― 物語(ゲーム)のクライマックス、黄金の城で<ほんとうのこと>を見抜き帰還した少年達は、しかし相変わらず広がり続ける世界の裂け目を目にする。
― 主人公たちが一足先に体験した怪異は、まもなく町中の人たちが経験することになる。そしてこの怪異はいったいどこまで広がるのか?
― 体育館の穴は拡がりつづけ、そして世界はゆっくりと変容していく。
荒唐無稽でありながら、読後に清涼感があるのが不思議です。
作者の紀和鏡
作者の紀和鏡に俄然興味がわく。児童文学はこの一作だけで80年代には SF やミステリーを、2000年代に入ってからは源平時代の熊野を舞台にした大作をものにしている。
ネット上にほとんど反響を見ないが、もっと読まれて語られてほしいと思う。
ちなみに挿絵を担当したのは飯野和好氏。90年前後は彼の作品をよく目にした。作品を見るとアーリー'90の甘酸っぱい気分が思い出されます。
小学校の共同購入で出会う
この作品に出会ったのは、小学校の共同購入でだった。当時、僕の小学校ではふた月に一度程度だったか、担任が児童書の書名の書かれた封筒を配っていた。書名のほかにチェック欄と値段が書かれていて、僕は思うままにチェックを入れるとその合計金額を袋に入れて後日担任に提出する。しばらくすると本が届いた。このような出費について両親は寛大でした。
さて、僕の手元にある本は実は二冊目になる。最初に共同購入したものは、いつの間にか見当たらなくなっていた。
― これもあのこの仕業なのだろうか?